Gazer(後編) 投稿者:氷雨 投稿日:2006/11/27(Mon) 15:10 No.35
──気がついたら、自分はそこにいた。 緑の天蓋が頭上を覆うその場所は、かつて姉や祖父とともに何度か通りかかったことがある。 確か、そう──「神宿りの樹」と呼ばれる老齢な大樹。千年以上の齢を重ねてなお、新しき息吹を 育み続ける神木。 (神宿りの、樹……) 改めて、心の中でその名を反芻する。 なぜ、自分がここにいるのか。そんな疑問が浮かぶが、しかしそれは不安を伴うものではない。 「あなたが……私を呼んだの?」 ──なんとなく、そんな気がしていたから。 だが、大樹は彼女の問いかけには答えない。ただ駆け抜けてゆく風に梢を囁かせるのみ。 同じく風に金色の髪を揺らしながら、彼女はその深い緑色の瞳をぱちくりさせた。 「あれ? 違ったのかなあ……」 確かに、何かに「呼ばれた」ような気はしていたのに。それとも思い違いだったのだろうか。 「う〜ん……ま、いっか! でも、本当に何度見ても立派な樹……」 しばし唸った末、あけらかんとした体で頷くと彼女は目の前の大樹に歩み寄ってその幹に手を──
──パシンッ
「えっ……?」 耳元で、何かを引っ叩いたかのような音を聞いた気がして、彼女はきょとんとして顔を 上げる。そして、目を見開いた。 一瞬──何が起きたのかすぐには理解できなかった。 ただ、我に帰って真っ先に分かったことといえば──寸前まで目の前にでんと構えていた 神宿りの樹が、視界から綺麗さっぱり消えていたことだった。 「あ、あれっ? 樹が、ない……!?」 きょろきょろと辺りを見回すも樹は見当たらず、それどころかどの方角を見渡しても新緑の 草原が広がるばかり。まるで、あの一瞬でまったく違う場所に飛ばされてしまったかのようだ。 「い、いったいどうなってるの〜!?」 さすがに動転して叫ぶ彼女の耳に──ふと、何かが聞こえてくる。 『……リ…ア…』 「……えっ……?」 遠くから──いや、心に直接響いてくるその声は、聞き覚えのない男の声。 だけど……なぜか、とても懐かしい── 『フリ……ジア……』 「誰……誰か、私を呼んでいるの……?」 再度辺りを見回すも、目に映るのはざわめく緑と空の蒼だけ──。 ……いや、 (あれ……?) いつの間に、そこに現れたのかは分からない。だが、確かにそこに「彼」はいた。 彼女より幾分背の高いその青年の顔は、然程距離は離れていないはずなのにはっきりとは 見えなかったものの、なぜかフリージアには彼が笑っているように思えた。 「あなた、誰……?」 呟くような彼女の問いは、果たして彼に聞こえただろうか。 『フリージア……』 なおも自分の名を呼ぶ青年は、こちらに片手を差し伸べる。 華奢すぎず、武骨すぎない大きなその手は、確かに自分に向かって差し伸べられていた。 ふと、何かが彼女の心の琴線に触れる。 ──そうだ。自分は……「彼を知っている」。 「まさか……」 フリージアはほぼ無意識に彼に歩み寄っていき、その手を掴もうとした。 ──ずっと探し求めていた。その手の温もりを。 「あなたは──」 もう少しで手が触れる、というところで彼女の後ろから吹いた風が前髪に隠れた青年の顔を 露にする──
「フリージア!!」
「──ふえっ!?」 不意に耳元で名を呼ばれ、フリージアはがばっと──ベッドから身を起こした。 きょろきょろと視線を巡らす内におぼろげな視界が鮮明になっていき、ついに両手を腰に当てて いる女性の姿を捉える。その背後では、窓から白銀に覆われたいつもの朝の風景が見えた。 「もうっ、何度呼んでも起きないんだから。 朝ご飯の支度が出来てるから、支度が出来次第降りてくるのよ?」 「う、うん……」 ちょっとだけ眉をしかめて──しかし、いつもの柔らかい物腰はそのままに──姉はそう言うと、 ぱたぱたと下の階へと降りていった。 しばらくぼうっとする頭の靄を払うのに悪戦苦闘しつつ、フリージアはようやく先程までの光景が なんだったのかに思い至った。 (……ゆ、夢かあ……) 思わず、ぼふっという音とともに枕に顔を突っ伏す。 ──でも、ただの夢というには、また違うような気もする。あの、神宿りの樹が見せた幻は── 「……へへっ、でもちょっと嬉しかったかも☆」 あの青年の姿は──彼女の知らない、「彼」の幻だったのか。 せめて顔は見たかったなあと思いつつ、知らぬ間に顔がほころんでくる。 「──フリージア〜! ご飯なくなっちゃうわよ〜!?」 階下から聞こえてくる姉の呼びかけに、フリージアははたと我に返ると、 「ええっ!? い、今行くから残しといてよ〜!」 そう叫び返すとフリージアは慌ててベッドから抜け出した。 ──たとえ、あれが幻だったとしても。 今日は一日、すこぶるいい気分で過ごせるに違いなかった。
まだ午前中だというのに、熱気が支配しつつある真夏の太陽の下。 そよぐ風も熱風となる炎天下から逃れるように、一人の少年が木陰で寝そべっていた。 年の頃は、十代半ばほど。どこにでもいそうな黒髪の少年であるが、ただ違う点といえば 簡素な鎧と剣がそのすぐそばに放り出されていることだろうか。 大樹の作る涼やかな恩恵に浸りながら、気持ちよさそうに寝息を立てている。 「──い……お〜い、リュウ!」 そこへ、遠くからもう一人──銀髪の少年が声を張り上げながら駆けてくる。 恐らく、「リュウ」というのがこの幸せそうに寝ている少年の名なのだろう。 「むにゃ……もう食えねえよ〜……ぐー……」 照り付ける陽光の下からすぐそばの木陰に駆け込んできた少年に、リュウは寝言で応じた。 ──いや、正確には「応じた」とは言い難い。 案の定、銀髪の少年はその端正な顔をしかめつつ、深い溜息を吐く。 「はあ……ったく、いつまで寝ぼけてるんだよ! 今日から新しい任務だろ。早く聖へレンズに 戻らないと、カイン将軍との待ち合わせに間に合わなくなるぞ!」 怒鳴りつける彼に、寝転がっていた少年は焦点の定まらない視線を向けた。まだ脳の半分以上は 夢の中にいるに違いない。 「ん〜? …………ぅえっ!? も、もうそんな時間かよ!? なんでもっと早く起こしてくれ なかったんだよ、アラン〜」 寝ぼけ眼に銀髪の少年──アランを見上げていたリュウは、不意に完璧に覚醒したように目を 見開くと、がばっと上半身を起こす。 一方、アランはリュウの言い分にぴくりと眉を吊り上げた。 「……あのなぁ……別に良かったんだぞ、俺だけ先に行っても。 単にお前があとでカイン将軍に絞られるだけだし」 リュウと同じくらいの年の頃のわりには怜悧な印象を与えるアイスブルーの瞳が、じろっと リュウを睨みつける。 その視線と言葉に「いっ!?」と呻くと、リュウはわたわたと近くに放り出していた鎧と 剣に手を伸ばす。 「そ、それはちょっと……。頼むから、準備するまで少し待っててくれよ〜」 「分かった分かった。早くしろよ」 泣きつくリュウに、アランも慣れた様子で溜息混じりに応えた。 「──しっかし、この場所好きだよな、リュウも。そんなに寝心地いいのか?」 リュウが鎧を身に着けるのを見やりながら、アランは幹に背を預けつつ問いかける。 確かに、特に今日のような猛暑の中にあっては、この木陰はちょっとした避暑地になるが。 「ああ。な〜んか、ここで昼寝してるとよく寝れるんだよな。なんでか、この辺りは魔物も 出ないしさ」 「……そう言われてみると、そうだな。──『神宿りの樹』って呼ばれてるのも、それが由縁 なのかもしれないな」 確かに、この丘は一番近い街である聖ヘレンズ城下町からも少し離れているため、本来なら 魔物が出てもおかしくないはずだ。 ──にも関わらず、この場所でよく昼寝をしているこの相方が魔物に叩き起こされたという 話は聞いたことがないし、彼自身も魔物の姿を見かけたことがない。 当のリュウはというと、 「『神宿りの樹』? ……なにそれ」 籠手をつける手を止めて、きょとんとした顔でアランを見返している。 これにはアランも呆れ顔だ。 「お前……そんなことも知らないでここに来てたのか?」 「え……うん」 素直にこくりと頷くリュウに、アランは再び嘆息してから言葉を続ける。 「この大樹は……『神宿りの樹』って呼ばれてるんだ。なんで、そう呼ばれてるのかは色々と 説があるらしいけど……結局、どれが正しいかは分かってない。なにしろ、千年以上前から 生きている樹らしいしな」 「へえ〜、随分と長生きしてるんだな〜、コイツ。でも──なんか納得できるかも」 「? なにが?」 感心したように頷くリュウがぽつりと漏らした言葉に、今度はアランが疑問符を浮かべる。 するとリュウはぱっと明るく笑って、『神宿りの樹』を振り仰いだ。 「だって、こいつの下で寝てるとさ。なんか、ほっとするっていうか。大きな何かに包まれてる みたいな感じがするんだよな。上手く言えないけど」 相方の感慨深げな台詞に、アランも目をぱちくりさせる。 ──だが、リュウの言っていることは、恐らく本当だろう。リュウはアランとは逆に、考える より先に行動に出る性質なせいか、ある種の「感覚」に優れているところがあった。 アランもリュウのそういうところは、よく知っている。 「そっか……本当にこの樹には『何か』が、宿ってるのかもしれないな。 ──って、それよりリュウ! 待ち合わせの時間!」 「ああっ!? そうだった!」 思わず、リュウだけでなくアランも話に気をとられて、時間を忘れてしまっていたらしい。 はたと思い出して叫ぶアランに、リュウも慌てた様子で剣を腰に掛ける。 「こうなったら、聖ヘレンズまで全力疾走だ! 行くぞ、リュウ!」 「ああ! ちょっと腹減ってるけど──」 「飯なら、城下町についてから幾らでも食え!」 ぼそっと付け加えるリュウに突っ込んでから、アランは涼しい木陰から太陽光線の真っ只中に 飛び出した。リュウもそれに続く。 じりじりと照りつける太陽は、今まさに天頂に昇ろうとしていた。
「ディアさん、もう少しでイージスに到着します」 「……ああ。分かっている」 男の一人の言葉に、そのすぐ背後で同じく歩を進める紅い髪の女はぶっきらぼうに応じた。 商業都市イージス。同時に、港町でもある街から彼らは遠き西方の村を目指すため、船に乗る つもりだった。 マントを羽織った(恐らく、その下に覗く武装を隠すためだろう)数人の男達の中で、紅一点 らしきその女は、小さく見えてきた街並みに目を細めた。 その横手から、先程とは別の男がわずかに顔をしかめながら女──ディアに話しかける。 「しかし、船が出せるでしょうか……。不穏な噂が流れている、とのことでしたが……」 「……無理にでも出させるさ。海路に怪物でも現れたなら、私が一刀の下に切り伏せるまで」 普通に聞けば一笑に付すような台詞を言っているが、ディアの発する気迫は尋常ではない。 改めて確認するまでもなく、本気で言っているらしい。 「あそこに行くには、海路を使うしかない。かといって、目的地に控えているヤツを倒す前に くたばっている場合でもないからな。気合いを入れていくよ!」 『はい!』 彼女の言葉に、周りの男達も気合いを入れなおすかのように大声で応じた。 ──そうだ。あの悲願を果たすまで、倒れるわけにはいかない。そのために失ってきた、 多くの仲間達のためにも。 より歩調を速める彼女の視界の端に、あるものがちらつく。 思わずそちらに視線を向けると、遠く北の方角に一本の大樹が見えた。 「神宿りの樹、か……」 彼女自身はあまり伝承などに詳しくはなかったが、かの樹が千年を超える時を生き続けている ということぐらいは知っている。──逆に言うと、それぐらいしか知らないわけなのだが。 (「神」、か……) その言葉に、思わず皮肉げな笑みが浮かんだ。 現在、聖へレンズの国教として信奉されている「ゾルダーク教」では、聖へレンズ国王── ブレイドV世が神に等しい存在とされている。 彼女に言わせれば──たかだか一人の人間風情が名乗る神を信じるぐらいなら、あの大樹に 宿っていると言われる「神」を信じる方がマシだ。 (まあ、本当に「神」とやらがいればの話だけどね……) もし、本当に神がいたならば。ゾルダーク教と彼女達と、どちらを愚かだと思うだろう。 (……ま、たとえ私達が愚かだとしても、私達は己の信じる道を行くだけだ) いずれにしろ、ゾルダーク教──そして「バプテスマの鐘」は悲劇しか生み出さない。 それを止めるために、彼女達は動いているのだから。 「……止めてみせるさ。嘆きの叫びは……もう、まっぴらごめんだ」 ぼそり、と彼女自身にだけに聞こえるようにその言葉は呟かれた。 ──もし、嘆きの鐘を止められたなら。 神宿りの樹も、悲しみに満ちたこの世界を見ずに済むようになるだろう。 そう、彼女は信じていた。
日も西の空に沈みゆき、紅の空に夜の帳が近づく。 時は、正しく「逢う魔が刻」。闇が世界を覆い、密やかに獣が──あるいは魔が翔ける刻の 始まり。 つい先程まで夕日を浴びて地に黒々とした影を落としていた大樹は、今はそれ自体が大きな 影となって闇と同化しつつある。 その、巨大な影の下に。いつの間に現れたのか──ぽつんと一つの人影があった。 黒ずくめの風体は訪れつつある闇に似ながら、しかし明らかな存在感でもって辺りの闇を 逆に制している。 フードを目深に被ったその人影は、飽きることなく眼前の影を──大樹を見上げていた。 「……神宿りの樹……か」 低く、抑揚のない男の声がその口をついて出る。どこか空恐ろしさを感じさせるほど、男の 声音は静謐だった。 そのとき、一陣の突風がフードをなぶり、男の顔をあらわにする。 フードの下から現れたのは、精悍な顔つきの青年。そして無表情に大樹を見上げるのは── 鮮血のごとき、暗き深紅の瞳。混沌と魔性を秘めた、「赤い闇」。 ──かつて、その瞳に宿っていた優しさを、大樹は知っていた。 そして、今のその瞳にかつての優しい光がないことを嘆くように、枝葉をざわめかせる。 わずかに舞い落ちる木の葉の一枚を掴み取り、男は薄く口元に笑みを這わせた。 辺りの「闇」の気配が、より一層濃くなる── 「フン……そうか。貴様は知っているのか。『この男』を」 大樹の嘆きを嘲笑うように鼻であしらうと、男は目を細める。 「──そうだな。もしや、貴様に知らぬことなどないのかもしれん。かつて……百年前に、 人間どもが愚かにも自ら我を──破滅を呼び込むさらに遥か昔から、貴様はこの場所ですべてを 『見ていた』のだからな」 まるで、その大樹と言葉を交わしているかのように男は一人呟くと、ふと笑みを消した。 そして、大樹の幹に片手をつき、目蓋を落とす。 男の周りから、異質な空気が──「瘴気」にも似た何かがにじみ出る。 男は幹に手をついたまま身動き一つせずに居たが、しばらくして再び目を開くと手を下げた。 「悲しみ、憎しみ、驕り、怒り……ありとあらゆる負の感情が、この世界には満ちている。 そしてそれは──我らがこの世界に現れる以前から、人間どもの心に存在している。 そう……それが元で、我もこの地に現れたのだからな」 遠い彼方を見るような目で語った男の口調が、そこで唐突に愉悦を含んだものに変わった。 「クックッ……妙なものよ。 貴様は、『神宿り』の名を冠していながら、我を拒むこともないのだな。 あるいは……貴様も、この世界に嫌気でもさしているのか? 醜い、人間どもの這い回るこの世界が……」 面白がるように見上げる男の視線に、大樹が「応える」ことはない。 しかし、男はなおも愉快そうに喉を鳴らすと、ばさりとマントを捌きつつ大樹に背を向けた。 「これからも、貴様はそこでこの世界を『見続ける』だけか。それもよかろう。 ──さて……この先、貴様が見届けるのは人間どもの終末か……」 ふわりと翼のごとくはらんだマントの下で、漆黒の剣の鞘が鈍く光る。 「それとも……我らが魔族の滅びか──」 闇を、夜を纏い男はその場から立ち去って行った。 男が残していった、魔の気配と凄まじい血の臭いが束の間の夜風にさらわれて行く──
地を駆け、天を舞う風に鮮やかな緑が身を揺らし互いに囁きあう。 雲ひとつない晴天から降り注ぐ陽の光は青々と茂った木の葉に遮られ、わずかに漏れた光は 風に揺れる枝に合わせて大地で踊る。 ──ただ一本、緑の丘に聳え立つ大木の下で、かつて師と剣を交えていたあの少年が立っていた。 ……いや。「少年」というには既に語弊があるだろう。彼はあの時の面影を残しつつも、精悍で 並々ならぬ覇気を感じさせる青年へと成長していた。 それもそのはず、あの時から──すでに十年以上の時が経っているのだ。 (だが……お前にとっては、その十年も微々たる時なんだろうな) そう考えると、複雑な想いに表情がわずかに歪んだ。 この十年で、自分はあらゆるモノを失った。この十年で、自分はあらゆるモノを得た。 その全てを。体に、心に刻みながら歩んできた。 それは痛みであり、喜びであり、悲しみであり、彼自身の存在そのものとも言えるだろう。 (まあ、その経てきた時を己の身に刻んでいるという点では……俺もお前も変わらない、か) 千年以上の時を生き、しかし不変ではないこの大樹はまるで生ける時の証のようだ。 『この樹は時を「見ている」──』 かつて、師がそう語った理由が、今なら分かる気がする。 この大樹は、今迄どれだけの想いに触れてきたのだろう。 この大樹は、今どれだけの想いを知っているのだろう。 この大樹は、これから──どれだけの想いを感じてゆくのだろう。 「彼」自身からすれば、あまりに短い命を持つ者達の想いをどう見ているのだろうか。 「お前は俺達の想いを知っているだろうに。でも、俺達はお前の想いを知らない──知れない。 ……お前からすれば、俺達の存在など儚い、ものなのだろうな……」 不意に伏目がちになって呟いた彼の顔に表情はない。 だがその声音には僅かな憂いが、悲愴が、悔恨の色が滲んでいる。 「……己の大事なものも守れずにのうのうと生きている俺を、お前は嘲笑うだろうか?」 そう言って、彼は顔を上げた。その顔には、自嘲めいた笑みがある。 ──もし、仮にこの樹に表情があったとしても、彼を嘲笑ったりはしないだろう。 それが分かっていたからこそ、彼は自ら己を嘲笑う。 自分の問いかけが、どれだけ無意味なものかは分かっていた。 だがそれでも、彼は問う事をやめなかった。 「遂げられない想いに、どれだけの意味がある……?」 想い、とはある種の「力」だ。時に己も予想だにしないことを成し遂げさせ、時に己が身に 破滅を呼ぶ。 今の自分のこの想いは──果たしてどちらだろう? 溢れる問いに対して、答えは一向に見つからない。誰も、与えてはくれない。 「……ん……?」 前触れもなく何かが頬に触れ、彼は頭上を見上げる。 ブラウンの瞳に、届くはずもない緑の天蓋からはらはらと葉が何枚も舞い落ちる様が映る。 どこか柔らかく──不思議と温かかったそれは、さながら御使いの残していった羽のよう。 優雅に、軽やかに舞い降りてきたその内の一葉を宙で掴むと、男はしばしその葉を見つめた。 そして、ふっと再度笑みを浮かべる。先程の自嘲めいた笑みに似た──しかし、明らかに先程 とは違う感情がそこには秘められていた。 「ふふ……お前に愚痴りに来たはずではなかったのにな。すまない」 ──とうに、分かっていたはずの答えだ。 今はただ、この想いを胸に前へ進むしかないのだということは。 この想いの「力」が今、新たな時を紡ぐのに必要なのだということは──。 「……まったく……お前に宿っている神とやらは、相当な気まぐれらしい。 その思慮を覗かせないと思えば、こうして──『導き』を与えるとは」 彼が葉を掴んでいた手を離すと、葉は再び独特の舞を見せながら足元に落ちる。 そして大樹に──あるいは、それに宿っているという神とやらに──にやりと笑いかけた。 「心配せずとも、俺は元より──先へ進むさ。それが、俺のすべきことだから。 何より、俺が……俺自身がそうしたいと想うことだから、な」 そう告げてから彼は身を翻して木陰から抜けると、ふと何かを思い出したように足を止めて 肩越しに振り返る。 「──そうだ。お前に伝えておきたかったことが、もう一つあったんだ」 空の蒼に近い色合いの髪を持つ青年は、少し間を置くと真顔で、しかし万感の思いを込めた 口調でゆっくりと続けた。 「……ありがとう」 恐らく、彼の想いを知っている「神宿りの樹」ならば、それが何に対する感謝の気持ちだった のかは分かっているだろう。だから彼は、ただその一言だけを風に乗せた。 ──そう、遠くない未来に。自分は、死を迎えるかもしれない。すでに、死神は彼の首筋に 冷たい大鎌の刃をそえていて、あとはただほんの少し引くだけなのかもしれない。 だが、今は──。 (……まだだよ。まだ、俺は──) 見上げる空のどこか──あるいは、彼自身の背後か──にいるやもしれない死神に向けて、 彼は不敵に笑って見せた。
この一歩は明日へ。 掲げる剣は彼方へ。 抱く思いは未来へ。 その命は短く儚きものなれど。 まだ、彼の──彼らの「時」は途切れない。
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